徳島城の石垣の積み石には、どのような刻印がありますか?【レファレンスQ&A】
歴史担当 山川浩實
城の石垣(いしがき)には、いろいろな文字や図形が彫(ほ)り込(こ)まれた積(つ)み石(いし)を見かけることがよくあリます。この文字や図形は、刻印(こくいん)もしくは刻紋(こくもん)とも呼ばれ、主として慶長年間(けいちょうねんかん)(1596~ 1615)以降に築(きづ)かれた城の石垣に見られると言われています。そのため城の石垣の刻印は、石垣が築かれた年代を知る上で、大変重要な手がかりとなります。
名古屋城は、石垣に人名・図形・数字などが彫り込まれた積み石が数多く残る城として有名です。積み石には「はちすか」「阿波守(あわのかみ)」などのように、石垣工事を分担した蜂須賀家(はちすかけ)の刻印が残っています。
さて、徳島城にはどのような刻印が残っているのでしょうか?徳島城の表御殿(おもてごてん)と奥御殿とを囲む石垣を詳しく調べると、文字や図形が彫り込まれた積み石を10個見つけることができます。この積み石は大手門(おおてもん)・太鼓櫓(たいこやぐら)・数寄屋橋門(すきやばしもん)の3ヶ所に残っています。文字や図形の種類はあまり多くありませんが、それぞれ4種類に分類できます。次の表は、刻印の種類と積み石の位置を示したものです。
図1 太鼓櫓東北隅の東面の刻印。
図2 数寄屋橋門南部の東面北寄りの刻印。
文字は「大」が最も多く見られ、図形は「▽」が2ヶ所に見られます。これらの刻印の大きさはさまざまですが、計測可能な刻印については、次のとおりです。
ところで、これらのさまざまな刻印は、なぜ付けられたのでしょうか?石垣の刻印は、一部に工事箇所(かしょ)や積み石の順序を示したものもありますが、本来の目的は、石垣工事の担当者を表示するために付けられたと言われています。すなわち石垣工事に当たって、その工事区域の責任者(せきにんしゃ)を明確に示したのが刻印だと考えることができます。しかし、残念ながら、徳島城の石垣工事の担当者はよく分かっていないのが現状です。
以上のように、徳島城の刻印は、城の表口にあたる大手門付近に集中しています。したがって徳島城の表口周辺の石垣は、1585年(天正13)から、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)によって開始された築城当初の石垣ではなく、工事を重ねてしだいに整備されたものであることがうかがわれます。
徳島城の石垣を詳しく調べると、新しい刻印を発見することができるかもしれません。ぜひ、皆さんも刻印探しにチャレンジしてみてください。