博物館ニューストップページ博物館ニュース057(2004年12月1日発行)徳島藩大森羽田出陣絵巻(057号館蔵品紹介)

徳島藩大森羽田出陣絵巻【館蔵品紹介】

歴史担当 山川浩實

1853年(嘉永(かえい)6)、アメリ力の東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀(うらが)に来航し、徳川幕府に開国を要求しました。幕府は諸大名を動員し、大森・品川・鉄砲洲(てっぽず)などを警護しました。ペリーの退去後、幕府はその再航に備えて、再び諸大名を動員し、江戸湾を囲むように、浦賀・大森・品川・羽田・安房(あわ)・上総(かずさ)などの各沿岸を厳重に警護しました。翌年の安政(あんせい)元年、ペリーの再航にあたって、徳島藩は幕府の命(めい)を受け、江戸の要衝(ようしょう)である大森・羽田地区を警備しました。この地区は、従来、彦根藩主井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)が警備を担当していましたが、京都の治安が悪化したことにより、直弼が京都守護に任じられたため、その後任として、徳島藩がこの地区の警備を担当することになりました。この警備のため、出陣する徳島藩の行列を描いたのが、今回紹介する「徳島藩大森羽田出陣絵巻」です。

図 1野戦大砲を引く鉄砲隊

図 1野戦大砲を引く鉄砲隊

 

絵巻の作者は藩の鉄砲足軽(あしがる)の原一介(はらいちすけ)(鵬雲(ほううん))で、実際に出陣する行列のようすを藩の陣屋で粗写(そしゃ)したことが絵巻の奥書(おくがき)に記されています。徳島藩はこの警備にあたり、その拠点として、大森に陣屋を建設しました。絵巻は、その大森陣屋から羽田方面に出陣する徳島藩の部隊を描いたものです。
以下、この絵巻によって、異国船警備における徳島藩の部隊の構成をみてみましょう。部隊は、大きく分けて、前列の実戦隊、中列の陣営隊、後列の指揮隊に分かれ、部隊は約570人で構成されています。

前列の実戦隊は、鉄砲組・組士(くみし)隊・長柄(ながえ)組・原士(はらし)隊で構成されています。これらの部隊は、野戦大筒(おおづつ)2門をはじめ、洋式銃や10匁(もんめ)火縄銃などの火器(かき)を装備しています。この部隊で特に注目されるのは、幕府から借用した調練用の大筒2門を装備し、さらに農業兼営の兵士である原士30人が動員され、うち20人が「トン卜口筒」と呼ばれた洋式銃を装備していることです。諸外国との通商条約が結ばれる以前において、すでに徳島藩が洋式銃を装備していることは、たいへん注目されることです。中列は、実戦隊を後方から支援する陣営隊で、武具方(ぶぐかた)、小荷駄(こにだ)役の夫方奉行(ぶかたぶぎょう)、建築工事役の繕(つくろい)奉行、医師などから構成されています。この中列の最後部には、異国船警備について、幕府との斐渉や連絡を担当するう江戸留守居役(るすいやく)が派遣されています。後列は、異国船警備の総指揮を司(つかさど)る家老の蜂須賀八之丞(はちすかはちのじょう)の指揮隊です。八之丞は、ほぼ行列の最後部を殿(しんがり)として進み、長い行列を統率しました。

原一介は、のち1861年(文久(ぶんきゅう)元)、徳川幕府が派遣した欧州修好使節団に賄(まかない)方として随行(ずいこう)しました。この時、欧州てれ撮影した原の写真が残っています(『写真集 蘇(よみがえる)る幕末ーライデン大学写真コレクションより-』 )。

以上のように、この絵巻は、ペリーの2度目の来航による徳島藩の異国船警備部隊の構成を詳しく知ることができる興味ある資料です。今後、部門展示などで紹介し、広く活用したいと考えています。

図2洋式銃と10匁火縄銃で装備した原士隊

図2洋式銃と10匁火縄銃で装備した原士隊

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