手押しの一輪車【館蔵品紹介】
民俗担当 庄武憲子
紹介する資料は、徳島市八万町(はちまんちょう)大野在住の方から寄贈を受けた、大正時代(1912~26年)ごろに使われていたという、古い手押(てお)しの一輪車(いちりんしゃ)です。収穫物・燃料・肥料・土砂などいろいろな物の運搬に用いられました。このような一輪車は、民具の辞典などには、「ネコグルマ」という名称で記載(きさい)されています。車のきしみが猫の鳴き声に似ていることに由来する名称だそうです。
図1を見てください。湾曲(わんきょく)した二つの木を腕木(うでぎ)とし、その間に入れた横木(よこぎ)の上が荷台(にだい)となります。前方に、大きな木を胴切(どうぎ)りにした車輪がつけられています。腕木の細くなった部分を両手で持って押し、荷物を運びます。手で持つ部分あたりに綱がつけられていますが、これは、荷物を載(の)せて運ぶ際に、車体を安定させ、手もとにかかる重量を軽くさせるよう、肩にかけるものです。
図1 手押しの一輪車の全体
図2 手押しの一輪車の車部分
荷物運搬用に、車のついた道具が庶民(しょみん)の間で、用いられるようになったのは、近世以降とされています。紹介しているような一輪車は、瀬戸内地域では、明治時代(1868~1912年)の中期には使われていて、日清戦争のおり、中国で見てきた復員兵(ふくいんへい)によってつくられたという話が伝えられているそうです。
また、全国的に見て、この型と同様の一輪車が用いられてきた地域には、偏(かたよ)りがあることが報告されています。瀬戸内地域・中国山地には多く分布するとされますが、その中で、広島県東部には少なく、米作地帯では稀(まれ)であることが報告されています。鹿児島県歴史資料センター黎明館(れいめいかん)の資料の解説によると、南九州においては、薩摩半島の南部の山川(やまがわ)町、開聞(かいもん)町、頴娃(えい)町、知覧(ちらん)町の一帯だけに分布するという特徴があるということです。
県内では、県立博物館のすぐ近くの、八万町大野に、この一輪車が残されていたので、そこで使われていたことがわかりました。けれども、ほかに一輪車について調べられたことは少なく、呼称(こしょう)をはじめ、ほかにどのような地域で多く使われていたのか、どういう由来で、いつごろから使用されてきたのかなどの特徴は、ほとんどわかっていません。
荷物を運ぶという普通の道具に見える、一輪車一点ですが、様々な課題を含み、今後の調査の必要と方向を示してくれる重要な資料のひとつとなっています。
参考文献
・朝岡康二ほか編 1997『日本民具辞典』ぎょうせい
・磯貝勇 1971『日本の民具』岩崎美術社
・神田三亀男 1985「瀬戸内の一輪車」森浩一著者代表
『日本民俗文化体系 第13巻 技術と民俗(上巻)=海と山の生活技術誌=』小学館 p.628