徳島市にある忌部神社の由来を教えてください【レファレンスQ&A】
歴史担当 長谷川賢二
A. 徳島市二軒屋町の眉山南東中腹に鎮座(ちんざ)する忌部(いんべ)神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命(あまのひわしのみこと)を主祭神とすることで知られています。阿波の忌部神社の歴史は古代に遡(さかのぼる)るものの、現在地に神社がつくられたのは明治時代のことです。なぜそうなったかというと、複雑な経緯があります。ここでは、その概略を紹介しましょう。
阿波忌部とは、古代の宮中祭祀(きゅうさいし)を担当した忌部氏に従属した集団です。忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺(こごしゅうい)』や平安時代の法令書『延喜式(えんぎしき)』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭(だいじょうさい)に際して、麁服(あらたえ)という布を献上しました。また、昨年10月に吉野川市が誕生したことによって消滅した「麻植郡(おえぐん)」(古代・中世は麻殖郡と表記)という郡名も、阿波忌部が麻を栽培したことに由来するという神話があります(『古語拾遺』)。
嘉禄本古語拾遺(複製)1226年(原著807年)当館蔵 阿波忌部に関する部分
このような古代阿波忌部の紐帯(ちゅうたい)だったのが、麻植郡にあった忌部神社でした。『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)に登載された、いわゆる式内社(しきないしゃ)で、その中でも阿波に三社あった大社のひとつでした。
そうした位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが、時代が降(くだ)るうちに所在が分からなくなり、複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜(けいふ)を主張するようになりました。そのため、近世から近代にかけて、所在地論争が続きます。所在不明となったのは、地震による崩落(ほうらく)のためとか、戦国期に土佐から侵攻(しんこう)した長宗我部(ちょうそがべ)氏に焼かれたからなどと伝えられています。
現在の場所に忌部神社が置かれた直接のきっかけは、明治初年の所在地論争です。1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足した際、古代の式内社である忌部神社が、所在不明のまま、神祇官(しんぎかん)所管の国幣中社(こくへいちゅうしゃ)に列格(れっかく)されます。そこで、神社の特定が急がれました。
ここで重要な役割を果たしたのが、小杉榲邨(こすぎすぎむら)(1834~1910)でした。彼は、近世末から近代にかけて活躍した国学者として著名ですが、その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(やまさきむら)(吉野川市山川町)の忌部神社が、式内社の系譜を引くものと判断されました。
これに対し、美馬郡西端山(にしはばやま)(つるぎ町貞光)の 五所(ごしょ)神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、激しい争いとなりました。本来は麻植郡にあった忌部神社の系譜を、美馬郡の神社に見いだそうとするのは奇妙なことですが、すでに『阿陽記(あようき)』など、近世に民間で流布(るふ)した地誌では、忌部神社がある地域はもとは麻植郡で、後に美馬郡になったとされ、美馬郡内にある阿波忌部の伝承や関係地が挙げられています。西端山側の主張には、そうしたものが底流にあったのです。そして、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。
このように、所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ、1887年(明治20)に遷座祭(せんざさい)を行って国幣中社忌部神社が新設されるに至りました。あわせて、五所神社は新しい忌部神社の摂社(せっしゃ)に位置づけられました。この決定については、異論はなかったようです。
ごく簡単に述べてきましたが、忌部神社論争の詳細については、まだ不明な点が多くあります。地域史研究のあり方や地域意識の推移を考える手がかりとして、追究が望まれる課題でもあります。
忌部神社(徳島市二軒屋町)