博物館ニューストップページ博物館ニュース060(2005年9月15日発行)焼け野原の徳島市街(060号情報ボックス)

焼け野原の徳島市街【情報ボックス】

歴史担当 山川浩實

焼け野原の徳島市街(徳島空襲を記録する会『写真集・徳島大空襲』1998年より

焼け野原の徳島市街(徳島空襲を記録する会『写真集・徳島大空襲』1998年より

1945年(昭和20)7月4日未明(みめい)、徳島市街はアメリカ軍の激しい爆撃(ばくげき)によって焼(や)け野原(のはら)となりました。この爆撃によって、死者約1,000人、負傷者約2,000人、被災(ひさい)者約70,000人の大きな被害を受けました。さらに神社・仏閣(ぶっかく)などの数多くの重要な建物をはじめ、貴重な文化財などが多数焼失し、人的・物的ともに極(きわ)めて大きな被害を受けました。この戦争による大きな被害は、徳島大空襲(とくしまだいくうしゅう)と呼ばれています。市内各所の被災情況の写真(徳島空襲を記録する会『写真集・徳島大空襲』1988年)によると、市街地は見渡すかぎりの焼け野原となり、わずかに焼け残ったコンクリート建築のビルと一部の木造の建物とが残っているありさまです。市街の中心部に架(か)かっていた新町橋(しんまちばし)は焼け落ち、徳島駅も全焼し、寺町(てらまち)もまったく廃墟(はいきょ)となりました。

このように、徳島市街地は焼け野原となりましたが、アメリカ軍の「作戦任務報告書」によると、アメリカ軍は徳島市街地のみならず、市内の重要な軍需(ぐんじゅ)工場なども爆撃の目標としていました。徳島を爆撃したグアム島の第314航空団は、あらかじめ司令部の命令に基づき、県下最大の紡績(ぼうせき)工場であった前川(まえがわ)の敷島(しきしま)紡績株式会社や防毒兵器などを製作していた田宮(たみや)の川崎航空株式会社、さらに沖(おき)の州(す)造船所の3カ所を明らかに爆撃目標としていました。そのため、これらの工場や造船所は、アメリカ軍の激しい爆撃によって著(いちじる)しい被害を受けました。

徳島を爆撃した第314航空団を指揮した司令部はワシントンの空軍司令部に、徳島市の市街地74%、1.7平方マイル(約4.4平方キロメートル)を破壊、焼失させたと報告しています。この数値は、アメリカ軍が爆撃前後に撮影した徳島市街地の写真を比較して計算した数値で、かなり正確な実態を示したものと考えられます。これに対して、徳島側の資料では、焼失面積は旧徳島市の約60%とされています。徳島大空襲後の徳島市の人口は、約半数(58.6%)に大きく減少しました(『徳島市誌』)。

こうして徳島市街地はまったくの焼け野原となり、人的・物的ともに極めて大きな被害を受けました。現在においても、徳島大空襲の傷跡は、高原(たかはら)ビル・蔭山邸(かげやまてい)の建物や寺町の墓石・灯籠(とうろう)・石碑などの石造物に深い傷跡を残しています。さらに現在でも、市内各所の工事現場などから、溶解(ようかい)したガラス片をはじめ、赤く焼け焦げた瓦(かわら)・煉瓦(れんが)や釉薬(うわぐすり)が溶解した数々の陶磁器(とうじき)などの空襲遺物が出土します。徳島大空襲の傷跡は、60年を経過した現在においても、今なお深い傷跡を残しています。

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