博物館ニューストップページ博物館ニュース065(2006年12月1日発行)藤重と阿波蜂須賀家(065号情報ボックス)

藤重と阿波蜂須賀家【情報ボックス】

美術工芸担当 大橋俊雄

茶道の歴史や、茶道具に関心をお持ちで、藤重(ふじしげ)という名前をお聞きになられた方はおられませんでしょうか。

御抹茶をいれる茶入の1つに、中次(なかつぎ)という、円筒形の容器があります。この中次を創り出したのが藤重だと伝えられています。とくに、漆で真っ黒にぬられた中次は、藤重中次と呼ばれることがあります。
藤重は、戦国時代の末に、奈良に現れた漆塗り職人だといわれています。徳川家康が豊臣家を打ち破った大坂夏の障のあと、家康の命令で、藤重藤元・藤厳という親子が大坂城の跡に入りました。親子は焼けた名物(めいぶつ)茶入を拾い集め、漆でていねいに修復し、家康に差し出しました。家康はその褒美(ほうび)として、付藻(つくも)・松本茄子(なす)という2つの名物茶入を与えました。

この付藻・松本茄子茶入は、現在東京の静嘉堂(せいかどう)文庫美術館が所蔵しています。X線調査などによりますと、砕かれた破片を漆で固め、焼き物の色合いや質感まで見事に復元しています。

藤元は、茶道具の袋縫(ふくろぬ)いや、茶入の鑑定もしました。彼以後、子孫が幕府の御用職人となり、将軍家の茶道具を管理する役目を務めました。しかし、藤元がいつ頃の人で、戦国時代の藤重と同一人物なのかどうか、詳しいことはわかっていませんでした。

徳島大学附属図書館には、藩士が蜂須賀家に提出した各家の成立書が保存されています。近年、その中から、藤重の分流が江戸後期に提出した成立書が発見されました。これを皮切りに、東京の国文学研究資料館史料館が所蔵する『阿波国徳島蜂須賀家文書』に、藤元とその分流に関する記録が、いくつか見いだされました。

実は、藤元と初代藩主蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は交流がありました。そして1620年代の寛永のころに、藤重の分流が、京都に本拠をおきながら藩の御用町人になり、やがて後代が藩士になりました。明治時代に、徳島市の佐古て活躍した南画家(なんがか)藤重春山は、その末裔(まつえい)です。

蜂須賀家側の記録をもとに、ほかの資料もあわせて検討すると、藤重藤元は、慶長から寛永10年代(1600~1630年頃)にかけて活動したことがわかります。茶人でいえば、細川三斎と同じ世代になります。そして戦国時代の藤重は、その何代か前の天文頃(1600年代前半)の人で、奈良の春日大社と関係があったと推測されます。

春山 轟泉図

春山 轟泉図

春山 鳴門図

春山 鳴門図

 

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