樋殿谷(ひどのだに)の蔵骨器(ぞうこつき)【館蔵品紹介】
考古担当 高島芳弘
樋殿谷遺跡は、阿讃山脈南麓(なんろく)、鳴門市大麻町字樋殿谷に立地しています。1961(昭和36)年に、竹内倉之進(たけうちくらのしん)氏がブドウ畑を耕作中に、偶然、蔵骨器を発見しました。蔵骨器は凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、地面を1mあまり掘り下げた後に、薄く木炭を敷いて、その上に安置され、人頭大の石で覆(おお)われていたと考えられています。
蔵骨器の中には、熟年男性と考えられる洗骨葬(せんこつそう)の人骨が納められており、金銅装方頭大刀(こんどうそうほうとうたち)1点、延喜通宝(えんぎつうほう)13枚、刀子(とうす)2点、砥石(といし)1点、が副葬(ふくそう)されていました。洗骨葬は、いったん土葬した人体が骨ばかりとなってから、それを掘り出してから拾い集め再埋葬(さいそう)する方法です。
発見の翌年、1962(昭和37)年には、蔵骨器とその副葬品が県立博物館の前身である徳島県博物館で展示され、また、徳島県指定有形文化財(考古資料)にもなりました。昨年初めに、倉之進氏のご子息である進(すすむ)氏より徳島県立博物館へ寄贈されました。
蔵骨器は身(み)が直方体で、中央に、上から見た形が長方形のくり込みがあり、下に行くほど狭くなっています。くり込みの緑に沿って出っ張りがあり、ここに蓋(ふた)が合わさるようになっています。蓋の上面は屋根の形をしています(図1)。
図 1 凝灰岩製蔵骨器(長さ 85cm)
副葬品の中では金銅装方頭大刀と延喜通宝が目を引きます。金銅装方頭大刀は直万平づくり形式で長さ70cmほどあったと思われます。刀身のほぼ中央付近で切断されており、先の方はほぼ直角に折れ曲がっています。金銅装方頭大刀は、最初の埋葬のときから副葬されていたのかもしれません。柄(つか)や鞘(さや)に付層する万装具では、冑金(かぶとがね)、柄緑(つかふち)、喰出鍔(はみだしつば)、鞘口金物(さやぐちかなもの)、足金物(あしかなもの)などが残っています。刀身などの特徴から、奈良時代から平安時代初頭の一般的な刀身とされています(図2)。
図 2 金銅装方頭大万
延喜通宝は13枚の内11枚がほぼ完全な形で残っており、直径1.8cmほどあります。907(延喜7)年に初めて鋳造(ちゅうじょう)されており、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)のひとつです。958(天徳2)年には最後の皇朝十二銭である乾元大宝(けんげんたいほう)が鋳造されました。
飛鳥時代から奈良時代となって火葬の風習が広まり、火葬骨を入れる容器として蔵骨器が用いられるようになりました。火葬墓が営まれるのは人里離れた山の斜面が多かったようです。徳島でも鳴門から板野にかけての阿讃(あさん)山脈南のゆるやかな斜面から蔵骨器と考えられる須恵器の短頚畳(たんけいつぼ)が多く見つかっています。樋殿谷遺跡と似たような立地の、板野町吹田高尾山(ふきたたかおやま)から出土した須恵器三足壺は、足が獣の足の形をしています(図3)。
図 3 須恵器三足壷
凝灰岩製の蔵骨器は少ないながらも火葬墓に類例があり、羽曳野市西浦(はびきのしにしうら)から出土した奈良時代のものとよく似ています。年代については、金銅装方頭大刀と延喜通宝の年代から、この蔵骨器は10世紀前半のものと考えられます。
この蔵骨器は、常設展示室の内、古代・中世の阿波のコーナーに展示されています。