博物館ニューストップページ博物館ニュース073(2008年12月1日発行)江戸時代に徳島藩はなかったという話(073号情報ボックス)

江戸時代に徳島藩はなかったという話【情報ボックス】

歴史担当 長谷川賢二

江戸時代の国家体制を幕藩(ばくはん)体制と呼び、テレビの歴史番組や歴史書でも江戸時代の地方のことは◯◯藩といわれることから、藩は江戸時代の制度として置かれたものと思っている人が多いようです。
それは徳島でも同じです。蜂須賀(はちすか)氏が支配した近世の阿波は、徳島藩・阿波藩・蜂須賀藩などといわれ、どれが「正しい」のかという見解の相違もあります。ちなみに当館の常設展では、江戸時代の阿波・淡路を「徳島藩」としています。

今日、1万石以上の大名の領地と支配機構を藩と呼び、国・郡・城下町などの地名、大名の姓を冠(かん)して名称とすることが一般的です。

「藩」という言葉は、中国古代の周(しゅう)という王朝で、各地に配置された諸侯(しょこう)を藩屏(はんぺい)・藩翰(はんかん)などと呼んだことにならって江戸時代の儒学者(じゅがくしゃ)が大名を「諸侯」、領地や支配組織を「藩」と呼んだことに由来するものです。そして、「藩士」や「藩制」といった熟語などがありましたし、江戸時代後期には大名領を藩と呼ぶことが多くなりましたが、江戸幕府の支配制度としては、藩という公称はありませんでした。史料用語として藩に当たるものとしては、領地は「領分」や「領」、家臣団・支配機構は「家中」があります。

したがって、江戸時代において、徳島藩・阿波藩・蜂須賀藩は、どれも制度的に決められたものではありません。そのために、現在では様々な呼び名が混在しているといえます。蜂須賀氏の領地と支配機構を意味する概念として用いるのであれば、どれでもよいということでもあります。

図 1 徳川秀忠判物写(複製)当館蔵(原品国文学研究資料館蔵)。1617年(元和 3)、将軍徳川秀忠から蜂須賀至鎮に出された領地宛行状。これによって、蜂須賀氏は阿波・淡路 2か国の支配を保障されました

図 1 徳川秀忠判物写(複製)当館蔵(原品国文学研究資料館蔵)。1617年(元和 3)、将軍徳川秀忠から蜂須賀至鎮に出された領地宛行状。これによって、蜂須賀氏は阿波・淡路 2か国の支配を保障されました。

図 2 徳島藩印と印影当館蔵。蜂須賀家熱海別邸旧蔵資料のうち。明治初年に用いられたものかと思われます

図 2 徳島藩印と印影当館蔵。蜂須賀家熱海別邸旧蔵資料のうち。明治初年に用いられたものかと思われます

ところで、明治初年には、地方制度として藩が置かれました。1868(慶応4/明治元)年、維新政府は旧幕府領を府・県とし、旧大名領を藩と称しました。このときに藩は初めて、正式な地方行政区画となりました。さらに翌年、版籍奉還(はんせきほうかん)に伴い、政府は阿波・淡路2か国から成る徳島藩を設置し、旧藩主蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)を知藩事(ちはんじ)に任命しました。ここに、政府の地方機関としての藩が置かれたのです。この徳島藩は、1871(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)までの短い間存在しただけです。そして、名実ともに制度として徳島藩があったのは、この明治初年だけのことでした。

 

目新しいことではありませんが、誤解の多いことなので、紹介してみました。

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