博物館ニューストップページ博物館ニュース074(2009年3月25日発行)Q.蒔絵師 桃枝について教えてください。(074号QandA)

Q.蒔絵師(まきえし) 桃枝(とうし)について教えてください。【レファレンスQandA】

美術工芸担当 大橋俊雄

上の質問は、今年1月に徳島県内の方からメールで頂いただいたものです。地元で郷土史(きょうどし)に関心をお持ちの方なら、観松齋飯塚桃葉(かんしょうさいいいづかとうよう)の名を、一度はお聞きになったのではないでしょうか。質問された方も、桃葉に関連して桃枝の名前をお知りになられたのかもしれません。

飯塚桃葉は、18 世紀後半に、阿波蜂須賀(はちすか)家に抱(かか)えられた江戸の蒔絵師で、名人として知られています。桃枝は、桃葉の後継者(こうけいしゃ)が修業時代にもちいた名前です。ただし、桃葉は明治の初めまで5代続いており、後継者がみな桃枝を名のったわけではありません。

記録および作品に記された銘(めい)から、桃葉各代を追うと以下のようになります。

初代が寛政(かんせい)2(1790)年に没(ぼっ)した後、桃枝が二 代目を継(つ)いで桃葉を名のります。やがて初代の孫 桃秀(とうしゅう)が活動を始め、天保(てんぽう)2(1831)年以前に三代桃葉になります。彼は、観松齋のほかに一艸庵(いっそうあん)、縫雪(ほうせつ)とも号しました。また天保12(1841)年に、養子桃枝とともに阿波を訪れています。この桃枝は、養父が桃秀であったころから活動し、後に四代目を継いだらしく、桃葉の名で元治(げんじ)元(1864)年に没しています。彼の跡取(あとと)りは、天保9(1838)年に生まれ、五代桃葉として徳島に移住し明治を迎えましたが、初名が知られていません。

今のところ、二代目と四代目が、若いときに桃枝を名のった事実が確認されます。

桃枝の作品として、百合(ゆり)を蒔絵した煙草入(たばこい)れを写真に示します(図1、2)。比較的多くの銘に、図2とよく似た字形と花押(かおう)が認められますが、これはどちらの桃枝なのでしょうか。長らく未解決だったこの問題を解く手がかりが、近年明らかにされました。

現在、茶道裏千家と徳川美術館(名古屋市)の2カ所に、扇子(せんす)を象(かたど)った同形同大の木地香合(きじこうごう)(お香入れ)があります。前者の香合は、もと蜂須賀家に伝来し、後者は尾張徳川家にありました。

これら2合は、十三代徳島藩主蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)が、淡路守(あわじのかみ)を受領していた天保6(1835)年から同14年の間に作らせたものです。1 合は、自身が箱書きをして、十二代尾張藩主徳川斉荘(とくがわなりたか)に贈おくり、他の1合は、斉荘に箱書きをしてもらい手許(てもと)に留(とど)めました。斉荘と斉裕は、十一代将軍徳川家斉の子で、別々の家の養子になりましたが、兄弟同士の間柄(あいだがら)です。

扇形(おうぎがた)は、家康が用いた金扇の馬印を表しています。素地(きじ)は、関ヶ原合戦のとき、家康が構えた陣屋(じんや)の柱と伝えられる木で、現地の土民から入手したものでした(茶道資料館編『徳川斉荘公と玄々 斎宗室』、2003 年)。
ところで、大阪市立美術館に、やはり関ヶ原御陣営の旧材と銘書きされた印籠(いんろう)・根付(ねつ)けがあります。桃枝の作者銘がそなわり、字形と花押が図2のそれと大方共通します。

この印籠・根付は、銘を信じる限り、先述の香合と同じ材を用いて、近い時期に桃枝が作ったと解釈されます。作者の桃枝は、天保頃の人であり、後の四代桃葉に該当(がいとう)すると考えられましょう。

二代桃葉に当たるもう1 人の桃枝は、図2とは異なる銘を用いたと想像されます。証拠(しょうこ)はありませんが、たとえば図3 などが候補にあげられます。

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