探してみよう!!藍商人活躍の足跡【CultureClub】
民俗担当 庄武憲子
徳島は、江戸から明治時代にかけて、染料「藍(あい)」の産地として全国に名をはせました。
徳島で藍の生産が盛んだった理由には、度々洪水がおきる、稲作には不利な土地であったことがあげられます。人々は、この吉野川流域に努力と苦労を重ねて、原料となるタデアイを栽培し、染料に加工してきました。
このほか、徳島の藍が全国市場の優位を占めるようになった背景には、徳島の藍商人の積極的な活動がありました。藍商人は、江戸(東京)、大坂(大阪)などの大消費地をはじめ、全国各地に売場株という制度と組織を置き、徳島産の藍を売り込み、販売網を広げていました。こうしたかつての藍商人の活躍ぶりを、現在私達は、意外に身近なところで確認することができます。
例えば、徳島市勢見町(せいみちょう)の金刀比羅(ことひら)神社の入口には、大きな常夜燈(じょうやとう)があります。そこには「御国産藍玉大阪積」の大きな文字を見ることができます(写真1)。天保(1830~1843年)の頃(写真2)、徳島の藍商人が寄進(きしん)したもので、大阪に徳島産の藍が積み出されていたことを一目で確認することができます。
写真1徳島市勢見町金刀比羅神社の常夜燈。離れた場所からでも「御国産藍玉大阪積」の文字を確認することができます。
写真 2 徳島市勢見町金比羅神社の常夜燈の側面。天保十己亥年(1839)三月吉日」、「世話人 大阪御蔵入売支配人中」、「石工 東新町 油屋源七 同常吉」の文字が見え,常夜燈が建立された時期,常夜燈を寄進した藍商人仲間,建立にたずさわった石工が推察されます。
また、徳島市川内町宮島(かわうちちょうみやじま)の金刀比羅(ことひら)神社にある常夜燈には「豊前豊後組」(写真3)、「藍屋中」(写真4)の文字が記され、現在の福岡県、大分県方面に藍を売り出す藍商人仲間がいたことがわかります。また、同神社の玉垣には「播三丹州藍屋中」(写真5)「播州売行司中」(写真6)などと刻まれたものもあり、藍商人が現在の兵庫県から京都府にかけて足を伸ばしていたこともわかります。
写真 3 徳島市川内町宮島金刀比羅神社の常夜燈。正面に「豊前豊後組」の文字が見えます。
写真 4 徳島市川内町宮島 金刀比羅神社常夜燈の側面。「藍屋中」の文字があり,組織に属していた藍商人の氏名が列記されていると思われます。
写真 6 徳島市川内町宮島 金刀比羅神社の玉垣。「世話人 播州売行司中」の文字が見えます。
これらの常夜燈や玉垣は、徳島から海を渡り各地へ進出していった藍商人が、商売繁昌や海上安全を願うため寄進したものと言われています。徳島の藍商人の全国展開の足跡は、県内だけではなく、京都の八坂(やさか)神社、大阪の住吉(すみよし)神社などにも残っています。
あなたがお住まいの近くの神社などにも、かつての徳島の藍商人の足跡が、残っているかもしれません。機会があったら調べてみて、新たなる発見に挑戦してみませんか?