博物館ニューストップページ博物館ニュース084(2011年9月25日発行)大塩平八郎と徳島~大塩のルーツは阿波国!?~(084号CultureClub)

大塩平八郎と徳島~大塩のルーツは阿波国!?~

歴史担当 松永友和

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)(1793~1837)は、今から174年前に、いわゆる「大塩平八郎の乱」を起こしたことで有名です。大塩平八郎と聞いて、「ああ、知っている。授業で習った」という方もおられるでしょう。しかし、大塩と徳島との関係をご存知の方は、それほど多くはないと思います。

大塩は大坂町奉行所与力(おおさかまちぶぎょうしょよりき)(大坂の行政・司法などを担当した役人)を務めたため、代々大坂在住の武士のように思われますが、実は阿波・徳島と深い関係がありました。

1 大塩平八郎の紹介

まず、大塩平八郎の人物紹介をしておきます。
大塩は寛政(かんせい)5年(1793)に、大坂町奉行所与力・大塩敬高(1770 ~1799)の長男として生まれます。幼くして両親を亡くしたため、祖父の大塩政之丞成余(まさのじょうなります)(1751 ~1818)によって育てられました。
15 歳になると、大坂町奉行所与力の見習いとして勤務します。与力としての大塩の活躍ぶりは目覚ましく、難事件を次々と解決していきました。
しかし、35歳の働きざかりのときに与力を辞職します。それは、理解ある上司が大坂町奉行の職を辞職したためでした。
その後は、私塾「洗心洞(せんしんどう)」において子弟の教育 に力を注ぐとともに、陽明(ようめい)学者として名を馳(は)せ、『洗心洞箚記(せんしんどうさっき) 』や『古本大学刮目(こほんだいがくかつもく)』などを著します。

2「 大塩平八郎の乱」

天保(てんぽう)期(1830 ~1844)になると、全国的な飢饉(ききん)が起こります(天保飢饉)。大坂の町にも多くの貧民(ひんみん)が集まり、餓死者(がししゃ)続出しました。その惨状(さんじょう)を目(ま)の当たりにした大塩は、原因は大坂町奉行所の政策にあると考えます。
 当時の大坂東町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ)(水野忠邦(み ずのただくに)の実弟)は、飢饉の最中(さなか)、残り少ない大坂の米を江戸に輸送しようとしたのです。跡部は江戸の幕閣(ばっかく)(老中(ろうじゅう)の一人に水野忠邦がいました)の指示に従ったにすぎませんが、大塩は跡部に対して怒り心頭に発(はっ)しました。そのことは、乱直前に発せられた「檄(文げきぶん)」の「先(ま)ず小役人(こやくにん)を誅伐(ちゅうばつ)すべし」という文言から読みとれます。
そして、天保8年(1837)2月19日早朝、大塩は決起し、「救民」の旗を掲(かか)げ、門弟の与力や大坂周辺の百姓(ひゃくしょう)らとともに蜂起(ほうき)したのです。もともと大塩は、幕府に対して反乱を起こす意図はなかったものと考えられますが、幕府は大塩らの行動を「乱」と捉とらえます。現在、歴史的用語として「大塩平八郎の乱」が使われるゆえんです。
蜂起はわずか一日で鎮圧(ちんあつ)されますが、以後、公然と幕府批判が展開されるようになり、乱から30 年後に幕府は滅(ほろ)びます。その意味で「大塩平八郎の乱」は、歴史的な大事件だったといえます。

3 大塩平八郎と徳島

さて次に、大塩と徳島との関係について見ていきましょう。実は、大塩平八郎の祖父政之丞成余は阿波国(あわのくに)の出身でした。
政之丞は、徳島藩家老稲田(とくしまはんかろういなだ)氏の家臣で、阿波国美馬郡岩倉村新町(みまぐんいわくらむらしんまち)(現、美馬市脇町(わきまち))の真鍋元右衛門(まなべもとえもん)の次男として生まれます。幼少の頃に、同じ稲田氏の家臣・塩田鶴亀助(しおたかきすけ)(?~1761)の養子となり、のちに大塩家に養子として入ります。塩田家は稲田家の用人(ようにん)(財務・記録などを管理した家臣)を勤めた関係で大坂と繋(つな)がりがあり、塩田鶴亀助の娘(誠月院)は大塩家四代・左兵衛(さへえ)に嫁(とつ)いでいました。しかし、左兵衛家には子がなく、左兵衛の死後、政之丞が大塩家の養子として迎(むか)えられたのです。政之丞が大塩家の養子となった背景には、大塩家と塩田家との姻戚(いんせき)関係があったのです。
ところで、大塩平八郎の祖父政之丞の出身は阿波国ですが、平八郎本人も同じく阿波国の出身とする説があります。しかし、平八郎が大坂町奉行所与力・大塩敬高の実子と認められる史料(国立史料館編『大塩平八郎一件書留』)が見出されたことにより、現在、平八郎の出身は、大坂・天満(てんま)とみるのが通説になっています。大塩平八郎の阿波国出生説は、政之丞と平八郎が混同されたことが原因のようです。

今回は、大塩と徳島との関係について、平八郎の祖父政之丞が脇町の出身であることを紹介しました。その意味で、大塩のルーツは阿波国と言えるでしょう。このような徳島と大坂との武家の交流は、大塩家以外にも見られたのかもしれません。今後は、その点を調べてみたいと思います。

 

参考文献:相蘇一弘『大塩平八郎書簡の研究』(清文堂出版、2003年)

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