博物館ニューストップページ博物館ニュース087(2012年6月25日発行)印籠拝見記-長岡市立科学博物館へ-(087号情報ボックス)

印籠拝見記-長岡市立科学博物館へ-【情報ボックス】

美術工芸担当 大橋俊雄

2012年2月、新潟県長岡市の長岡市立科学博物館をお訪ねして印籠3点を拝見しました。印籠とは、薬を入れて携帯(けいたい)する小さな容器で、箱を何段か重ねた形状が多く、ヒモを通して腰(こし)にぶらさげます。近世に登場し、男子がアクセサリーとして腰に提(さ)げて出歩きました。

拝見までのいきさつは以下のとおりです。前年に、印籠に大変くわしい高尾曜氏(文化庁伝統文化課)が、島原藩主の墓から出土した印籠について報告文(「島原藩主松平忠雄副葬品について-三河本光寺発掘の印籠類を中心に-」『漆工史』34号)を出されました。そして東京都港区済海寺(さいかいじ)の長岡藩主牧野家(はんしゅまきのけ)の墓所からも印籠が出土していると指摘(してき)されました。牧野家の印籠は土田宗悦(つちだそうえつ)作や飯塚桃葉(いいづかとうよう)作だと言います。

この報告文を読み、さっそく同墓所の発掘(はっくつ)調査報告書を探し出して読みました。1972年に、同寺にある牧野家歴代の墓所の発掘調査が行われ、1986年に東京都港区教育委員会が調査報告書を刊行しています。同書によると、明和(めいわ)3年(1766)6月に没(ぼっ)した8代藩主忠寛(ただひろ)の墓の棺(ひつぎ)内から、生前愛用したらしい調度品(ちょうどひん)が多数出土しました。なかに印籠9点が含まれ、うち3点に桃葉銘(とうようめい)があり写真も掲載(けいさい)されています。わたしはこれらの事実を全く知りませんでした。

桃葉は観松斎(かんしょうさい)と号した江戸の蒔絵師(まきえし)です。明和元年(1764)5月に阿波国(あわのくに)徳島藩主蜂須賀重喜(はちすかしげよし)に召(め)し出され、桃葉と改名し、観松斎の号を与えられます。寛政(かんせい)2年(1790)に没するまで、おもに重喜のために蒔絵を製作しました。代表作に百草蒔絵薬箪笥(ひゃくそうまきえくすりたんす)(根津(ねづ)美術館蔵)、宇治川蛍蒔絵料紙箱(うじがわほたるまきえりょうしばこ)・硯箱(すずりばこ)(宮内庁三(くないちょうさん)の丸尚蔵館(まるしょうぞうかん)蔵)、塩山葦手蒔絵細太刀拵(しおやまあしでまきえほそたちこしらえ)(東京国立博物館蔵)などがあります。印籠も数多く手がけています。
現在、墓所の出土品は補修も終わり長岡市立科学博物館に所蔵されています。同館にお願いして印籠を見せて頂きました。

1点目は小ぶりな三段印籠です(図向かって右)。茶色みをおびた漆塗(うるしぬ)りの地(じ)(もとは漆黒(しっこく)かも知れません)で、表面に2匹(ひき)のウサギを高蒔絵(たかまきえ)で表し、裏面には何も描きません。段の継(つ)ぎ目や内部は、すべて金粉を密に蒔(ま)き詰(つ)めた金地(きんじ)です。

2点目は四段印籠です(図中央)。雲や霞(かすみ)の立ちこめる中を桜の花びらが舞(ま)う模様を、研出(とぎだし)蒔絵で表しています。大きさや形のちがう幾(いく)種類もの蒔絵粉(まきえふん)を蒔き付け、透(す)けた漆を塗り込(こ)んで平らに研ぎ出しています。
3点目は三段印籠です(図向かって左)。漆塗りの地に3羽の千鳥(ちどり)を表します。2羽は金高蒔絵(きんたかまきえ)ですが、あとの1羽は何かを貼(は)り付けていたのが失われたらしく、今は千鳥の形に抜けて下地が現れています。輪郭(りんかく)にそって金蒔絵が残りますので、あるいは金色の金属板を打ち出して嵌(は)め、際(きわ)を蒔絵で整えたのでしょうか。

3点とも底部に「桃葉〈花押(かおう)〉」の蒔絵銘があり、桃葉自身の筆遣(ふでづかい)いとみて差し支えありません。彼の活動が明和元年5月以後、牧野忠寛の没年月が同3年6月ですから、印籠はこの2年1ヶ月の間に作られています。年代の絞(しぼ)り込める桃葉蒔絵では、最も早い時期の作品となります。

カテゴリー

ページトップに戻る