博物館ニューストップページ博物館ニュース089(2012年12月1日発行)Q.文化の森に古墳があると聞きましたが、どこにあるのですか?(089号QandA)

Q.文化の森に古墳(こふん)があると聞きましたが、どこにあるのですか?【レファレンスQandA】

考古担当 高島芳弘

A.文化の森の古墳は近代美術館の東側、北へ張り出した尾根(おね)の先端(せんたん)近くにありました。地名から向寺山古墳(むこうてらやまこふん)と呼ばれています。現在、尾根先端部は削け ずり取られ、公園の園路となっています(図1)。文化の森がつくられた場所は、徳島藩(はん)の家老(かろう)長谷川氏の別荘(べっそう)で、延生軒跡(えんしょうけんあと)として知られています。文化の森の建設工事に先立って発掘(はっくつ)調査され、江戸時代の屋敷跡(やしきあと)のほかに、古墳や古墳時代中期後半の土師器(はじき)、須恵器(すえき)、製塩土器(せいえんどき)なども発見されました。

向寺山古墳(むこうてらやまこふん)の在った場所(近代美術館の東側)

向寺山古墳(むこうてらやまこふん)の在った場所(近代美術館の東側)

 

2基(き)の組合式箱型石棺(くみあいしきはこがたせっかん)がほぼ直角に接して見つかっています。2基ともに、長さ2m、幅(はば)0.4m、深さ0.3m 程度です。岩盤(がんばん)を削り出して石棺を設置し、石棺に蓋石(ふたいし)をかぶせた後、その上に石を積んでいます。石棺及び積石の石材はすべて緑色片岩(りょくしょくへんがん)(青石(あおいし))が使われています(図2)。底面は掘(ほ)り込(こ)んだ岩盤そのままで、箱形石棺の内部からは、人骨や副葬品(ふくそうひん)はまったく発見されませんでした。盛り土による墳丘は認められませんが、墳丘(ふんきゅう)を区画していたと考えられる石列(せきれつ)が確認されています。

図 2 向寺山古墳の調査風景(1985 年)徳島県立埋蔵文化財総合センター提供

図 2 向寺山古墳の調査風景(1985 年)徳島県立埋蔵文化財総合センター提供

 

緑色片岩(青石)を使った組合式箱形石棺は阿波型石棺(あわがたせっかん)と呼ばれたこともあり、広く徳島県に分布しています。文化の森周辺・園瀬川(そのせがわ)流域でも、石棺を持つ古墳群が数多く見つかっています。なかでも眉山南麓(びざんなんろく)の恵解山(えげやま)古墳群、「七つ山」と呼ばれる独立丘陵(どくりつきゅうりょう)上の犬山天神山(いぬやまてんじんやま)古墳群、地蔵橋(じぞうばし)駅周辺の通称(つうしょう)「とっくり山」に立地していた鶴嶋山(つるしまやま)古墳群などが有名です。恵解山古墳群には、箱形石棺や竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)しつを埋葬施設(まいそうしせつ)とするものが7基あります。墳丘は10m前後の小さなものばかりですが、短甲(たんこう)や衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、鉄刀(てっとう)、鉄剣(てっけん)、鉄鏃(てつぞく)など特色のある武器・武具類が大量に副葬されていました。犬山天神山古墳群からは11基、鶴島山古墳群からは8基の箱形石棺等が見つかっています。ともに少量の鉄製品などしか副葬されていませんでした。この二つの古墳群には人骨が残っているものもあり、人骨は水銀朱(すいぎんしゅ)によって真っ赤に彩(いろど)られていました。この三つの古墳群は、ほぼ5世紀代につくられたと考えられています。

これらの古墳群も向寺山古墳と同様にその姿を消してしまいました。恵解山古墳群は宅地開発によりすべて壊(こわ)されてしまい、9号墳だけが近くに移築保存されています。犬山天神山古墳群は南環状線(みなみかんじょうせん)の道路によってその立地する山の南半分が削り取られています。鶴島山古墳群は、住宅団地の建設により立地する山全体が削り取られ平地となっています。

向寺山古墳は、古墳がつくられた当時の地形がまだ残っています。側を通ったときには、箱形石棺を持つ古墳がこのあたりに在ったことを思い浮かべてください。

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