Q.美波町志和岐には「長崎市」の人の名前ばかりが書かれた「寄附者芳名」碑がありますが、これはどんなものなのでしょうか?【レファレンスQandA】
民俗担当 磯本宏紀
美波町志和岐地区にある碑なのに、寄付者がすべて長崎市の人というのも不思議ですね。この碑について見てみましょう。
図1 美波町志和岐の「寄附者芳名」碑
図2 「寄附者芳名」碑の碑文
碑の左端には「大正十四年三月 志和岐浦消防組」とあり、この碑が大正14年頃に集められた寄付金や寄付者を記し、それが志和岐地区の「消防組」によるものだとわかります。地元の方に聞くと、この寄付金は、志和岐地区の消防用倉庫(現在は別の建物)を建てるのに使われたことがわかりました。
では、肝心の「長崎市」の寄付者のオンパレードにはどんな意味があるのでしょうか。寄付者の名前を見ると、船具店、仲買、鉄工所、造船所等の業者名が並んでいます。個人名による寄付も問屋の代表者名です。当時長崎にあった森田屋、宮永、山田屋(現在の山田水産株式会社等)、林兼長崎支店(現在のマルハニチロホールディングス等)の代表者等の名前があります。碑に書かれている名前の内、旧由岐町の出身者は馬淵造船所だけですが、当時は五島列島の福江島玉之浦(現在の長崎県五島市玉之浦町)で造船所を営んでいました。
碑文の業者名は、実は現在の美波町を中心とする地域から九州へ出漁していた阿波の延縄漁船団に関係する業者です。当時の阿波船団の漁民らは、福江島玉之浦に移り住んで漁業根拠地とし、東シナ海などで漁をしていました。また、一部の漁民らは長崎へと根拠地を移し始めた時期でした。長崎等の問屋は阿波船団に経営資金を融資し、船具屋や造船所は漁具や漁船を整備し、仲買は水揚げした魚を買い取っていました。いずれも、阿波船団の出漁先で関係の濃い業者だったのです。そして、こうした業者が、阿波船団の出身地である美波町志和岐地区からの要請により寄付を行った記録が、この「寄附者芳名」碑なのです。