藩絵師-画名のうつりかわり-【CultureClub】
美術工芸担当 大橋俊雄
典博の事跡
矢野栄教典博(やのえいきょうみちひろ)(?-1799)という名はご存知の方が少ないのではないでしょうか。江戸時代の18 世紀後半に、四国の徳島藩で仕事をした狩野(かのう)派の絵師です。
矢野家が藩に提出した成立書(せいりつしょ)(徳島大学附属図書館蔵)などによると、典博はもともと料理方(りょうりかた)の藩士の家に生まれ、父常博(つねひろ)の影響を受けて絵の道に進んだようです。明和(めいわ)元年(1764)に江戸へ行き、幕府御用(ばくふごよう)をつとめる木挽町(こびきちょう)狩野家に入門し、栄川院典信(えいせんいんみちのぶ)のもとで本格的に修業をしました。画名(がめい)である栄教の「栄」、典博の「典」の字は、どちらも典信から拝領(はいりょう)しています。典信が亡くなると、数多い弟子のひとりとして池上本門寺に筆塚(ふでづか)を建てています。
藩での典博の画事(がじ)をみますと、藩主の蜂須賀重喜(はちすかしげよし)と、その息女(そくじょ)の載(つく)、寿代(すよ)に、絵の手ほどきをしたことが特筆されます。重喜が大谷屋敷という豪華な住まいを国許(くにもと)に建てたときも、絵師としてその建造に関わりました。安永(あんえい)9年(1780)には、元藩主であった蜂須賀宗鎮(むねしげ)の遺像(ゆいぞう)を手がけました。
経歴をみるかぎり、典博は藩絵師として華々しく活躍したようです。しかしその割に、今日彼の作品に出会う機会があまりありません。偶然とは思いますが不思議な気もします。あるいは今後増えてゆくのでしょうか。
典博と画名
この典博について、当館で所蔵する森崎家(もりさきけ)資料から興味深いことがわかります。森崎家資料については、博物館ニュース93号(2013年12月発行)で簡単に紹介しました。地元の絵師たちが持ち伝えていた、江戸期から明治にかけての粉本(ふんぽん)約500点です。作画の参考となる古画(こが)の写しや下画(したえ)類を、一括して保管していたものです。
粉本の中には、典博や、彼の幼名(ようみょう)である九郎三郎(くろうさぶろう)の署名が記されたものがあり、ほかに南李(なんり)、貞英(さだひでヵ)という、いままで知られていない矢野姓の署名がみられます。
典博、九郎三郎、南李、貞英のそれぞれの筆跡を比べると、どれもよく似ています。年記のあるものは、南李が宝暦(ほうれき)13年(1763)、九郎三郎が明和2年、貞英が同2年と3年、典博が同5年以後となり、九郎三郎と貞英の時期が重なります。
改めて成立書を読むと、典博は幼名を九郎三郎といい、明和4年(1767)7月に栄橋典博(えいきょうみちひろ)を名のり、安永4年(1775)12月に「橋」の字を「教」に改め栄教としたとあります。南李、貞英の名はみあたりません。
成立書と粉本のデータをつきあわせると、どうやら南李、貞英は、栄橋典博を名のる前の九郎三郎の画名(または画号(がごう))ではないかと推測されます。すなわち、典博の名が以下のように変化したと考えられます。
九郎三郎 幼名(明和2年までは確認される)
南李 父常博に師事したころ
貞英 明和2・3 年ごろ
栄橋典博 明和4年から
栄教典博 安永4年から
最後に実例をあげます。竹虎図(ちくこず)(図1)は、画中に「宝暦十三未年十月朔日写之 矢野主」とあり、紙背に「竹虎 南李主」と記されています。「主(ぬし)」とは持ち主のことで、ここでは矢野南李の所持を示しています。くわしくはふれませんが、いつ写したのかていねいに書きつけること、「写之(これをうつす)」あるいは「主」などの筆づかいに、後年の典博との共通性が感じられます。典博の父常博は南竹と号しましたので、南李は一字をもらったのでしょうか。
図1 竹虎図(左)とその留書(右)
つぎの郭子儀図(かくしぎず)(図2)は、画中に「矢野九良三郎主」および「明和二乙酉年七月五日写之」と楷書(かいしょ)で記されていて、典博が写して持っていたことが明らかです。仙人図(せんにんず)(図3)には、「明和二乙酉年孟春写之 貞英主」「六幅之内二幅写」とあり、筆跡が図2でみた九郎三郎のものときわめて似ています。典博と貞英が同一人物であるとみなされる、有力な手がかりのひとつです。
図2 郭子儀図(左)とその留書(中、右)
図3 仙人図(左)とその留書(右)