博物館ニューストップページ博物館ニュース097(2014年12月1日発行)那賀郡富岡町吹田家文書(097号館蔵品紹介)

那賀郡富岡町吹田家文書【館蔵品紹介】

なかぐんとみおかまちふきたけもんじょ

歴史担当 松永友和

当館には、那賀郡富岡町吹田家文書と呼ばれる110 点余の古文書が収蔵されています。那賀郡富岡町は、戦国時代に牛岐(うしき)城を拠点に新開(しんがい)氏が同地一帯を治めた地域であり、現在の阿南市富岡町にあたります。

さて、近世の富岡町ですが、天正(てんしょう)13年(1585)に蜂須賀(はちすか)家が阿波国(あわのくに)を支配するようになると、蜂須賀家政(いえまさ)の甥(おい)・細山帯刀(ほそやまたてわき)(のち賀島政慶(かしままさよし))が牛岐城に配置されます。その後、牛岐という地名は富岡と改名されます。江戸時代の富岡町は、阿波南方(みなみかた)の政治・商業の中心地として栄え、町内に居を構えたのが吹田家です。

図 1 吹田家が徳島藩に献上した冥加金の請取書。

図 1 吹田家が徳島藩に献上した冥加金の請取書。
献金のかわりに、吹田家は質屋株の所持が許されています。江戸時代の質屋は、銀行が存在する現在とは異なり、地域金融を支える側面がありました。

 

吹田家は、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に紀伊国熊野浦(きいのくにくまのうら)から富岡町に移り住み、質屋や酒屋業などを営むかたわら(図1)、町年寄などをつとめるなど、富岡町を代表する町人といえます。徳島藩とも関わりがあり、藩に金銀を用立てる御銀主(おぎんしゅ)を命じられ、藩の財政の一部を支えるとともに、天明(てんめい)4年(1784)には自宅の敷地内に藩主らが宿泊・休憩(きゅうけい)するための本陣(ほんじん)を建設しています(図2)。

図 2 藩の役人が、吹田家当主に差し出した古文書の冒頭部分。

図 2 藩の役人が、吹田家当主に差し出した古文書の冒頭部分。天明4年(1784)から吹田家が、本陣御用をつとめたことがわかります。

また、明治6年(1873)時点における蔵書目録が残されており(図3)、蔵書の多さとともに当主の幅広い教養や知識の奥深さを感じさせます。弘化3年(1846)には、郷学校(ごうがっこう)の暇修館(かしゅうかん)(明治4年に富岡郷学校(とみおかごうがっこう)と改称)が創設されますが、その運営経費の一部を吹田家が補填(ほてん)をするなど、地域の教育振興にも尽力しました。
このように、吹田家文書からは家や地域の歴史をうかがい知ることができます。資料の調査研究や活用が進むことによって、地域の歴史がより一層豊かなものになればと思っています。

 

図 3 吹田家が所持していた蔵書目録の冒頭部分。

図 3 吹田家が所持していた蔵書目録の冒頭部分。
「 周易」や「後漢書」などの中国の書物の他に、「武徳編年集成」(徳川家康の伝記)や「湖月抄」(「源氏物語」の 注釈書)など、多くの書籍を所持していたことがわかります。

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