博物館ニューストップページ博物館ニュース099(2015年6月25日発行)Q.高野山に、徳島から運ばれた石碑があるそうですが、どんなものですか?(099号QandA)

Q.高野山に、徳島から運ばれた石碑があるそうですが、どんなものですか?【レファレンスQandA】

歴史担当 長谷川賢二

A.ご質問の石碑(せきひ)は、和歌山県の高野山(こうやさん)奥の院にある名号板碑(みょうごういたび)です(図1)。地上高が180cm余りもある、大きなものです。

板碑とは、中世の供養塔(くようとう)の一種です。高野山に残るこの板碑は、板状に整形された緑色片岩(りょくしょくへんがん)が用いられ、山形の頭部とその下の2 条線があり、さらに塔身部には長方形の枠線があります。材質・形状ともに「阿波型板碑」の典型的なものです。枠線内には六字名号(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ))が大きく刻まれ、趣旨なども見られます。名号は時衆(じしゅう)系の書体で、徳島県内にも例があります。南北朝時代の康永3年(1344)、阿波の国府(徳島市国府町)の住人覚仏(かくぶつ)が、自分自身の往生と亡き妻子の冥福(めいふく)を祈るために建てたことが分かります。

図1 高野山奥の院の名号板碑 左:実物、右:拓本(当館蔵)

図1 高野山奥の院の名号板碑 左:実物、右:拓本(当館蔵)

ところで、この板碑は阿波から高野山に運ばれたと思われますが、その背景は何でしょうか。ここで注目したいのが、時衆との関係がうかがえる名号です。中世の高野山には、堂舎造営(どうしゃぞうえい)のための勧進(かんじん)活動、高野山への信仰を広める役割を担い、念仏を唱えた高野聖(こうやひじり)(図2)がいました。彼らは、南北朝・室町時代に時衆化したことで知られています。阿弥陀信仰を介して覚仏と高野山を結びつけ、板碑を建てるきっかけをつくったのは高野聖だったのではないでしょうか。

図 2 三十二番職人歌合絵巻(模本)のうち高野聖(当館蔵)

図 2 三十二番職人歌合絵巻(模本)のうち高野聖(当館蔵)

弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)ゆかりの真言(しんごん)密教の聖地である高野山と阿弥陀信仰がかかわるのは不思議に思われるかもしれませんね。大師信仰が盛んになった10世紀末~11世紀、高野山は浄土とみなされ、阿弥陀如来(あみだにょらい)や弥勒菩薩(みろくぼさつ)への信仰と結びつきました。高野山は阿弥陀信仰の聖地でもあったのです。
今年は、空海の高野山開創から数えて1,200年にあたります。高野山を訪ねる人も多いでしょうが、奥の院の名号板碑もぜひご覧いただきたいものです。

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