博物館ニューストップページ博物館ニュース115(2019年6月25日発行)『絵本目録覚』―徳島藩の絵師の絵手本リスト―(115号情報ボックス)

『絵本目録覚』―徳島藩の絵師の絵手本リスト―【情報BOX】

美術工芸担当 大橋俊雄

江戸時代、諸国(しょこく)の藩(はん)はしばしば絵師(えし)を抱(かか)えていました。徳島藩もおなじで、たとえば矢野(やの)家は、記録から代々の名が分かり、制作のときにつかう絵手本(えてほん)(専門用語で粉本(ふんぽん)といいます)も多くのこしています。ただし今では作品をほとんど眼(め)にすることがありません。

矢野家はもともと料理方(りょうりかた)でした。勘五郎常博(かんごろうつねひろ)(?-1756)のときに藩命(はんめい)で絵を描(か)くようになりました。つぎの栄教典博(えいきょうみちひろ)(?-1799)は、当時もっとも勢いのあった幕府奥(ばくふおく)絵師の江戸木挽町(えどこびきちょう)狩野(かのう)家当主・栄川院典信(えいせんいんみちのぶ)に入門しました。典博をついだ伊籍栄直(いせきながなお)(1791-1811)は、典信の後継者(こうけいしゃ)である養川院惟信(ようせんいんこれのぶ)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ)の教えを受けましたが、病(やまい)のために若くして亡くなりました。伊籍の弟であった伊章栄雅(いしょうながまさ)(?-1840)が、役目をつづけるためにいそいで栄信の門に入り、その子章三郎由直(しょうざぶろうよしなお)が晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)の弟子となりますが、章三郎はなぜか途中で絵の修業(しゅぎょう)をやめてしまいました。

伊籍は、母の看病(かんびょう)のために修業を休み、徳島にもどっていて自身も病にたおれました。ここにあげる『絵本目録覚(えほんもくろくおぼえ)』(図1、2)は、彼が国(くに)もとで30歳をむかえた文化(ぶんか)3年(1806)の年記(ねんき)があります。当時、30歳は絵師が一人前になる区切りの年齢でしたが、彼にはどのような想(おも)いが去来(きょらい)したのでしょうか。

図1 『絵本目録覚』表紙 (徳島県立博物館蔵)

図1 『絵本目録覚』表紙 (徳島県立博物館蔵)

図2 『絵本目録覚』のうち「聖人賢人臣下」の項画題の下にある名前は、絵手本の原本の作者名。

図2 『絵本目録覚』のうち「聖人賢人臣下」の項画題の下にある名前は、絵手本の原本の作者名。

『絵本目録覚』は、常博、典博、栄直の3代がためた絵手本を目録にまとめています。絵手本は、巻物(まきもの)や、折りたたまれた1枚もののかたちをしていました。絵の依頼があると、『絵本目録覚』からふさわしい画題をえらび、実際の絵手本をひろげてそれを写しました。

絵手本を写して作品にするのは、今日(こんにち)の感覚からはすこし奇妙なやり方かもしれません。しかし狩野家につらなり、藩に抱えられた絵師たちは、今のいけばなや茶(ちゃ)の流派(りゅうは)のように、きめられた「型(かた)」を大切に守りました。絵をたのむ方も、その「型」のなかに権威(けんい)や格式(かくしき)のたかさを感じとって満足しました。

『絵本目録覚』に記載(きさい)された絵手本は、ばらばらな状態ですが現在まで伝わっています。それらを照合(しょうごう)すると、矢野家が手がけた画題がどのようなものであったのか、傾向(けいこう)を知ることができます。たとえば中国の故事(こじ)や神仙(しんせん)をめぐる話、布袋(ほてい)、大黒天(だいこくてん)、寿老人(じゅろうじん)などの福神(ふくじん)が多かったことが分かります。

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