南北朝時代の写経と山伏-神山町勧善寺所蔵大般若経を例として-【CultureClub】
歴史担当 長谷川賢二
勧善寺所蔵大般若経とその成立
大般若経(だいはんにゃきょう)とは、大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)の略で、全600巻から成ります。各地で書写、奉納が行われ、日本史上、もっとも広く浸透した経典でした。
さて、ここでは、中世には大粟郷(おおあわごう)や大粟山(おおあわやま)といわれた神山町(かみやまちょう)(以下では、中世の神山町域を大粟山と表記)の勧善寺(かんぜんじ)(同町阿野字宮分(あのあざみやぶん))に伝来する大般若経を取り上げます。この大般若経は、南北朝時代末期の1387年(至徳4・嘉慶元)から1389年(嘉慶3・康応元)にかけて書写されたものです。黄染楮紙に墨書(ぼくしょ)された巻子本(かんすぼん)で、明治時代、1965年前後、1970年代後半に修理、欠巻の復元等が行われており、現状では全600巻がそろえられています(ただし、白紙が8巻あります)。1978年には徳島県有形文化財に指定されています。また、2003年には過去に流出した1巻が発見され、後に当館に収蔵しました。
以上のような大般若経は、もとは柚宮(ゆうのみや)八幡宮(神山町阿野二ノ宮(にのみや)に所在する二之宮八幡神社(にのみやはちまんじんじゃ))に奉納されたもので、明治初年に勧善寺に移されたようです。
この大般若経は分散的に書写されており、写経所となった寺社等は19か所、写経者や願主などの関係者も43名にのぼります。
写経所の分布は、大般若経の奉納先だった柚宮八幡宮の近辺を中心に、大粟山の中が多いのですが、現在の徳島市や佐那河内村(さなごうちそん)、石井町(いしいちょう)や吉野川市鴨島町(よしのがわしかもじまちょう)などにもありました。そして、讃岐(さぬき)にも写経所があり、国境を越えた広がり見られます(図1)。
図1 写経所の分布
このように各地で書写された経巻(きょうかん)が柚宮八幡宮に集約され、大般若経一式が成立したと考えられます。14世紀後半、写経事業を媒介とした寺社等のネットワークが形成されていたといえます。大粟山は山深い土地ですが、けっして閉じた世界ではなく、多方面へのつながりの中に位置づけられていたといってよいのです。
写経に携わった山伏
以上のような大般若経の中で、とくに巻208の奥書(おくがき)(図2)に注目してみましょう。写経に関わった人物の姿がかなり具体的に浮かび上がるからです。
図2 巻208奥書
(尾題前)
宴氏房宴隆
(尾題後)
嘉慶弐年初月十六日 般若井(菩薩) 十六善神
三宝院末流瀧山千日大峯葛木両峯斗(→原稿にはくさかんむりがついています)(抖)薮観音卅
三所海岸大辺路所々巡礼
水木石八□伝法長日供養法護广(摩)八千枚修行者
為法界四恩令加善云々
後日将続之人々(梵字 ア)(梵字 ビ)(梵字 ラ)
(梵字 ウン)(梵字 ケン)一反 金剛資某云々熊野
山長床末衆(梵字 ア) (梵字 ウン) (梵字 バン)
1388年(嘉慶2)、熊野長床衆(くまのながとこしゅう)である宴氏房宴隆(えんしぼうえんりゅう)が書き残したものです。長床とは、本来は峰宿(ぶしゅく)における護摩炉壇(ごまろだん)を意味しましたが、次第に山伏の修行場としての機能を持つ施設の呼称になったものです。長床に依拠(いきょ)する山伏を長床衆と呼びました。
この奥書から、宴隆が熊野那智山(なちさん)での参籠(さんろう)、大峰(おおみね)・葛城(かつらぎ)山系での入峰(にゅうぶ)、西国三十三所や海岸大辺路(へじ)の巡礼といった修行を行っていたことが分かります。「海岸大辺路」については場所の特定がむずかしいですが、平安時代に四国の海岸沿いをめぐって修行することを「四国辺地」といい(「今昔物語集」)、鎌倉時代には山伏が修行として「四国辺路」を行った事例がある(神奈川県愛川町八菅(あいかわちょうはすげ)神社所蔵碑伝(ひで)、「醍醐寺文書」)ことから、四国での海岸めぐりの修行を意味していると考えてよさそうです。こうした内容から、宴隆が旅の宗教者であったことが読み取れます。
一方、巻210奥書を見ると、宴隆が阿波国内でも移動しながら活動していたことが分かります。そこには、宴隆の署名とともに、板西(ばんざい)郡(板野町(いたのちょう)西部から阿波市(あわし)東部一帯に比定)吉祥寺(きちじょうじ)の僧が書写したことが記されています(図3)。宴隆の勧進(かんじん)によって写経が行われたのでしょう。このように、阿波国内外を往来する宴隆のような存在は、ネットワークの結節点(けっせつてん)としての役割を果たしたものと思われます。
ところで、巻208奥書によれば、宴隆は「三宝院(さんぽういん)末流」と称しています。この部分からも彼の特徴が見いだせます
図3 巻210奥書
「三宝院」は、中世の阿波には確認できません。真言密教の流派である三宝院流に連なるという意味で考えれば、京都の醍醐寺(だいごじ)三宝院が該当すると考えられます。こうしたつながりの背景としては、醍醐寺の開山である聖宝(しょうぼう)への信仰が関連していると思われます。
13世紀後半頃から、聖宝を山伏の祖とする信仰が醍醐寺内にあり、それはさらに熊野長床衆にも受容されていたようです(「醍醐寺新要録」「山伏帳」)。これを踏まえると、宴隆自身に聖宝に連なるという意識があり、三宝院とのつながりを求める面があったのではないでしょうか。
なお、三宝院は近世初期に修験道当山派(しゅげんどうとうさんは)を組織するというのが通説ですから、宴隆のような山伏がいたことは、当山派の成立史を見直す手がかりにもなっていくことでしょう。
大粟山の求心力
宴隆が大粟山に出自をもつのか、それとも大粟山とは無関係なのかは分かりません。後者の場合を想定すると、大粟山の何が山伏など宗教者を惹きつけることになるのか、考えてみる必要があります。そのことは、宴隆のみならず、大般若経の成立に関わる問題として重要です。というのも、分散的な写経、そして経巻の集約という流れを考えると、大粟山を中心とする人的交流を導く力が何であったか探る必要があると考えられるからです。
そこで注目されるのが、焼山寺(しょうざんじ)の存在です。この寺は柚宮八幡宮の南西約5キロメートルにあたり、四国霊場12番札所として著名です。「阿波国太龍寺(たいりゅうじ)縁起」(10世紀前半~14世紀前半)に弘法大師(こうぼうだいし)と関わる山として現れることから、写経が行われた頃には、弘法大師信仰の拠点霊山でもあったといえます。
また、徳島県指定有形文化財である焼山寺所蔵「某袖判下文(ぼうそではんくだしぶみ)」(1325年)によれば、修験道と関係の深い蔵王権現(ざおうごんげん)や、弘法大師の事績との関連がある虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)がまつられていました。
断片的ではありますが、南北朝時代までには、焼山寺に弘法大師信仰、蔵王権現、虚空蔵菩薩といった要素が見られたわけです。そうであるなら、焼山寺を中心にして、大粟山には山伏をはじめとする宗教者の往来が誘発された可能性は高いでしょう。
経巻という史料―おわりに
経巻が史料になるというと、奇異な感じがあるかもしれません。しかし、ここでも示してきたように、経巻に書き残された情報が歴史を知る手がかりになることがありますし、経巻自体が歴史性を持っています。こうした史料の世界にも関心を向けていただければ幸いに思います。