阿波踊りはもともと、死者の霊を慰めるための踊りだと聞いたことがありますが…県内にはほかにどんな盆踊りがありますか?【レファレンスQandA】
民俗担当 磯本宏紀
A.徳島の夏の盆踊りといえば阿波踊りがあまりにも有名です。国内外から、毎年多くの観光客を呼び込む強烈なエネルギーをもった踊りとして知られています。しかし、阿波踊りもその歴史を遡(さかのぼ)れば、各村落でやっていた鎮魂(ちんこん)、鎮送(ちんそう)の踊りが原形とされます。時代とともにさまざまな音曲(おんきょく)や芸を取り入れつつ変化し、徳島城下の盆踊りとして受容され、第二次世界大戦後に「阿波踊り」と称されるようになりました。
では、鎮魂、鎮送を目的とする盆踊りはどのような変遷(へんせん)をたどってきたのでしょうか。盆踊りの原形は踊り念仏だといわれます。平安時代末期に、死者の霊を慰(なぐさ)めるため空也によってはじめられ、一遍によって広められたという踊りです。これが風流化し、時代とともに多様な形に変化したのが、現在の盆踊りということになります。
それでは、鎮魂、鎮送のお盆の踊りをいくつか紹介したいと思います。つるぎ町貞光川見(さだみつがわみ)地区には、踊り念仏といわれる踊りが伝えられています。新仏の供養のため、川見堂という四つ足堂内で、近年では毎年8月14日の夜に踊られています(図1)。堂の中央に先達(せんだち)(鉦(かね)打ち)が立ち、踊り手はそれを取り囲むように輪をつくって立ち、「ナムアミドーヤ、ナモーデー、ナモーデー」と繰り返し唱えながら踊ります。踊りの輪の中に入った人々は、両腕を伸ばし、左右へ揺すりながら左廻りに一斉に両足で跳びます(図2)。昭和20年代には輪に加わる人も多く、各家の長男だけが踊り念仏に加わって跳ぶことができるとされ、信仰上の理由から踊り念仏のときには女性が堂内に立ち入ることは禁じられていました。また、踊り念仏が終わると堂の外に出て、キヨメ踊りが踊られました。ドブ酒を飲みながら、夜が明けるまで踊りつづけました。若衆はこの後、ほかの地区で行われる廻り踊りという盆や八朔(はっさく)に踊られる踊りにも加わったといいます。このキヨメ踊りは、各地で行われる廻り踊りにも通じるものですが、川見地区では現在行われなくなっています。
図1 川見堂
図2 川見踊り念仏
踊り念仏が、県内ではつるぎ町貞光川見、木屋(こや)の2地区だけで踊られているのに対し、廻り踊りは、徳島県西部を中心に広く分布する踊りです。つるぎ町一宇(いちう)の定光寺(じょうこうじ)の廻り踊りでは、中央に櫓(やぐら)を組んで唐傘(からかさ)を立て、櫓の四つ角には竹を立てます。その櫓には音頭出しが登って音頭をとり、老若男女の踊り手が輪になって踊ります(図3)。現在、カラオケ大会、抽選会なども同時に行われ、イベント化されてはいるものの、新仏のあった家からは初穂料が納められるなど、死者供養の性格をみることができます。廻り踊りが、八朔踊りとして盆を過ぎた旧暦8月1日に踊られる踊りであったり、集落単位から学校区単位でのイベントとして行われるようになったりと、各地でその多様な姿を見ることができます。
図3 定光寺廻り踊り
その中で明治中期の変化として、広場のなかった地区では、かつて堂内で廻り踊りとしてやっていた踊りをやめ、笛、太鼓、鉦を打ちならして道中を練り歩くように変わったのだと伝えられます。また、一方で堂から広場に場所を移して廻り踊りを続けた地区もあったようです。明確な史料的根拠が乏しく、はっきりしたことはいえないのですが、どうも踊り念仏から鎮魂、鎮送の性格を受け継いだまま踊り自体は時代に合わせて変化し、踊りを担う人々の感覚に合った形につくり変えられてきたようです