博物館ニューストップページ博物館ニュース061(2005年12月1日発行)須木一胤の資料が寄贈されました(情報ボックス)

須木一胤の資料が寄贈されました【情報ボックス】

美術工芸担当 大橋俊雄

みなさんは須木一胤(すきかずたね)という人をご存じでしょうか。「阿波徳島城図」(当館蔵)の筆者です。明治6 年(1873)に徳島冨田浦(とみだうら)に生まれ、脇(わき)町中学校教諭をへて同35年に徳島県師範(しはん)学校教諭になり、昭和3年(1928)に退職し、同11年まで生きました。住吉派(すみよしは)の佐香美古(さこうよしふる)に日本画を学び、兄弟子に山本鼎湖(やまもとていこ)、湯浅桑月(ゆあさそうげつ)がいます。また書もたしなみました。

須木一胤の肖像

須木一胤の肖像

このたび、子孫の須木成芳(しげよし)様より、一胤の資料441件(887点)を御寄贈いただきました。

内容は、一胤の制作した画稿・下絵・書作品のほか、彼の残した記録や道具、蔵書、幕末明治期の錦絵版画(にしきえはんが)などからなり、徳島で活躍した画家や書家の作品もあります。

徳島の書画家の作品は、江戸時代から昭和にまたがり、いずれも一胤が制作や研究の参考とするために集めたものです。ほとんどが未表装の捲(まく)りか、一胤自身によって表具された状態です。藩絵師(はんえし)の年記のある珍しい作品や、住吉派の画家の作品、徳島の名鑑類(めいかんるい)に名前が紹介されるものの、実作例がはっきりとしなかった人たちの作品などがあります。徳島の漢詩、短歌、俳句界をリードした人たちの自筆短冊(たんざく)もあります。

記録類には、藩絵師の佐々木家にかんする、墓碑(ぼひ)や過去帳からの採録(さいろく)があります。謎(なぞ)に包まれていた佐々木家の一端が、これで明らかになると期待されます。また当時流行していた、定期的に有志が古器物(こきぶつ)をもちよって鑑賞論評する会の記録もあります。一胤たちの会は「無名会」と名づけられていました。

ところで大正12年(1923)には、学制頒布(がくせいはんぷ)50年を記念して、徳島県教育会が、徳島城公園や師範学校を会場にして「教育展覧会」という一大イベントを開催しました。その折、明治以後の当県における絵画の変遷(へんせん)年表が展示されましたが、その草稿もあります。一胤が年表を作ったこと、彼が、徳島の美術の移り変わりをていねいに調べていたことがうかがえます。

一胤は多才人ですが、寄贈資料からは、彼が教え子から慕(した)われ、色々な仲間と交流していた様子が活(い)き活(い)きと浮かび上がります。近代徳島の文化は、一胤のような人たちが支えていたのだと、実感させられます。
最後になりましたが、寄贈に御尽力をいただいた土井公平様に、改めて厚く御礼を申し上げます。

一胤の画稿(左右とも)

一胤の画稿(左右とも)

矢野栄教筆 大黒天図

矢野栄教筆 大黒天図
栄教は徳島藩の御用絵師。天明9年(1789)正月の年記があるのが珍しい。表装は一胤自身によるもの。この軸には、作品の説明文と、佐々木家にかんする調査メモ(写真右側)が巻きこまれていた。

小沢魚興筆 寿老人図

小沢魚興筆 寿老人図

一胤は大の広重ファンで、年譜をつくり、本の図版の切り抜きや絵葉書まで集めていた。

広重版画 梅に鴬
一胤は大の広重ファンで、年譜をつくり、本の図版の切り抜きや絵葉書まで集めていた。

短冊 左は小杉榲邨、右は福田天外

短冊
左は小杉榲邨、右は福田天外

 

 

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