博物館ニューストップページ博物館ニュース085(2011年12月1日発行)徳島藩士の交友の証~森川宗次の遺墨墳を訪ねて~(085号歴史散歩)

徳島藩士の交友の証(あかし)~森川宗次の遺墨墳を訪ねて~【歴史散歩】

美術工芸担当 大橋俊雄

徳島市南佐古(みなみさこ)六番町にある臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の大安寺(たいあんじ)は、阿波藩主蜂須賀家(あわはんしゅはちすかけ)の菩提所(ぼだいしょ)です。今は物静かな佇(たたず)まいのお寺です。

境内に広がる墓地の南東縁(なんとうべり)、山際(やまぎわ)の一段高い場所に総高153cm の石碑(せきひ)があります。正面に「阿波國故内小姓士森川宗次遺墨墳」と刻まれており、阿波藩主の奥小姓(おくごしょう)を勤めた森川宗次の遺墨(いぼく)を祀(まつ)った碑と知られます。向かって左の側面、背面、右側面へと、宗次の事跡(じせき)および碑を建てた趣旨(しゅし)が漢文で記され、末尾(まつび)には「寛政六年三月廿五日」の年記、「征夷府奉朝請待問儒員柴邦彦撰/征夷府内右筆局直事 屋代弘賢書」の撰者(せんじゃ)および書者名があります。

宗次の履歴(りれき)は、森川家の家譜(かふ)『成立書並系図共森川百助』(徳島大学附属図書館蔵)に載(の)っています。碑文(ひぶん)の内容については、徳島大学名誉教授であった故竹治貞夫(たけじさだお)氏が、読み下しと丁寧(ていねい)な注釈(ちゅうしゃく)を残しておられます(同氏編『阿波碑文補集』1-16頁1995年2月私家版)。
宗次は諱(いみな)を叙茂といい、家禄(かろく)250石こくで森川家7代目を称(しょう)し、安永(あんえい)4年(1775)から没(ぼっ)する寛政(かんせい)5年(1793)まで、藩主蜂須賀治昭(はるあき)の奥小姓を勤めました。治昭は自ら書を嗜(たしな)みましたが、筆と硯(すずり)などの管理をすべて宗次に任せるほど、彼に厚い信頼を寄せていました。宗次はまた書作品を模写(もしゃ)する技術に長(た)けていました。

寛政4年、老中松平定信(ろうじゅうまつだいらさだのぶ)の意向により、儒学者(じゅがくしゃ)の柴野栗山(しばのりつざん)、和学者(わがくしゃ)の屋代弘賢(やしろひろかた)、絵師の住吉広行(すみよしひろゆき)らが、京都と奈良にある古寺社の宝物を調査します。これは天明(てんめい)8年(1788)に焼失した内裏(だいり)が、古制(こせい)によって再興されたのを機に行われました。治昭は、宗次を御内御用として調査に参加させます。碑文によると、宗次は老僕(ろうぼく)1人を従えるのみの質素な姿で、一行(いっこう)にうち交じり大いに楽しみました。京都五山(ござん)や南都七大寺(なんとしちだいじ)に出入りし、雪の中を信貴(しぎ)、当麻(たいま)、多武峰(とうのみね)の山々に分け入りました。建物に梯子(はしご) をかけて額字(がくじ)を写し、崖(がけ)をよじ登って石碑などの拓本(たくほん)を採りました。夜には屋代弘賢らと品評して写しを作りました。

宝物調査の成果は、栗山が『寺社宝物展閲目録』にまとめて幕府(ばくふ) に提出しています。調査の様子は、弘賢が随筆(ずいひつ)『道の幸(さち)』を著して広めました。宗次は藩に戻ると、褒美(ほうび)として50石の加増(かぞう)を受けました。彼を派遣(はけん)んした治昭の並々ならぬ関心の高さが窺(うかが)えます。
森川宗次遺墨墳(いぼくふん)は、栗山や弘賢などの調査仲間が、江戸で埋葬(まいそう)された宗次を悼(いた)んで、翌年に故郷の地に建てた供養碑(くようひ) です。竹治氏が「保存良好」と評されたように、弘賢の書を刻(きざ)んだ文字は、今も碑面(ひめん)に偲(しの)ぶことができます。建碑にいたる背景、碑文の内容、撰者、書者、保存状態など、色々な角度から再評価してみたい貴重な歴史遺産(いさん)です。
 

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