博物館ニューストップページ博物館ニュース007(1992年7月10日発行)畿内からみた四国の古墳(007号CultureClub)

企画展「四国の古墳」記念講演【CultureClub】

 平成4年度第1回企画展「四国の古墳」は、4月24日から5月24日の期間開催されました。観覧者数は4,703人で県外からも多数の方が見に来て下さいました。
 この企画展の記念講演会が5月17日(日)に行われました。参加者は197名で、非常に盛況でした。以下、このときの講演の内容をテープから採録して掲載します。

講演2 畿内からみた四国の古墳

大阪大学文学部教授 都出 比呂志

講演する都出比呂志氏

講演する都出比呂志氏

四国には4世紀代の古墳が多く、古墳発生期の興味深い例がある。香川県鶴尾神社4号墳や徳島県萩原遺跡は、前方後円墳の起源を考えるうえで注目すべき遺跡である。
弥生時代、3世紀半ばごろになると、墳丘の周囲に掘った溝の一部を掘り残して陸橋とする墳丘墓があらわれた。やがてその陸橋が立派につくられるようになり、前方後円墳になったと考えられる。先にあげた鶴尾神社4号墳や萩原遺跡はその過程を知ることができる好例であるといえる。
香川県石清尾山古墳群の猫塚古墳は、双方中円墳という特殊な形をしており、古墳の発生を考えるうえで重要な遺跡である。石室が6つあったともいわれており、古墳発生期に墳丘がつくられ、その後も同じ墳丘に埋葬が続けられたものと考えられる。
双方中円の形は、2世紀末ごろの岡山県楯築遺跡などにもみられ、瀬戸内地方でその後もその形が残ったものと考えられる。
一方、4世紀につくられた古墳に目を転じると、四国の古墳は大きくふたつの独自性を持っていることがわかる。
ひとつは、四国の東部を中心に、墳丘がすべて石でつくられた積石塚が多いことである。
もうひとつは、埋葬の頭位である。畿内、吉備、出雲などでは北枕が多いが、四国では東あるいは西にした古墳が多い(図2)。

図2 宮谷古墳の竪穴式石室

図2 宮谷古墳の竪穴式石室


四国の豪族が東西方向の埋葬にこだわっていた背景には、古墳の形という見かけのうえでは前方後円墳という畿内中心のものを受け入れているが、中身では古くからの伝統を踏襲するという抵抗の姿勢があったと考えられる。東西方向の埋葬は北部九州にもみられ、四国への何らかの働きかけがあったとも考えられる。
2世紀末から4世紀にかけて、畿内の政権は瀬戸内海や日本海の海上交通権をおさえようとした。そのため、四国では港を見おろすような位置に古い古墳が多くつくられたと思われる。
また、4世紀末から5世紀になると、四国最大の香川県富田茶白山古墳のような、畿内にもみられるような周濠をもつ大きな前方後円墳が築かれるようになった。5世紀のはじめごろには、畿内政権は瀬戸内地方の要衝を握ったといえるのではないだろうか。

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